<早稲田大学の講義最終日に寄せて>19人殺傷,私たちの手で暗黙知を形式知へ
 〜忘れるな20160726


そろそろ忘れろ!と言われそうですが、そりゃ無理な話です。
人生は続きますし、日常は進んでいきますが、ブログはどうしても振り返りが中心になります。
私は、夏休みに現場に行ってきましたが、その時のメモは以下のとおりです。

<津久井やまゆり園に献花に行ってメモ>
もうこんな所には住みたくない,殺されるのは嫌だ,という力が左肩に乗った。
自由と平等と安全の地域生活の仕組みを「たすく」の総力で築く。
結論は「教育」だ。教育によって,
隔離する環境を不必要にすれば良い。

なかなかシンプルでよくまとまっていますが、
もう少し、整理が必要です。
今日は早稲田の講義、最終日だったので、学生へのメッセージとしてまとめてみました。

<存在そのものが尊いという思想>

 相模原の事件以降,気持ちが落ち着きません。

 何が強行の引き金になったのか。植松被告の精神鑑定が続いています。 私たちの赤ん坊は、通常、何にもできません。何もできない。100%してもらう存在です。 乳幼児期に、<在ること>、すなわち、何もできないけど<在って良いんだ>、100%してもらう体験を繰り返し、自分は生きていて良い存在なんだ。ということを学習していくと言えるのではないでしょうか。 すなわち私たちは、Be<在ること>を基盤にして、Do<すること>を積み重ねていく存在であると言うことができるのではないでしょうか。 つまり、乳児期にすり込まれる<在ること>こそ、本来、最も重要とされることと言うことができると考えるのです。 それでは、障害があること、他者との違いを尊重しながらも,真に<在ること>認め合う存在として向き合うにはどうしたら良いのでしょうか? 植松容疑者には、どうせ頑張ったって、無駄なんだというファクターがあったのでは無いか?そう思った経緯があったはず。 そしておそらくエディプスコンプレックスなどの背景から、父親と同じ職業に就けなかったことに絶望し,でも自分なりの自己実現のために試みたabilityを障害者に実行できず・・,誰とも共有できない状況にまで追い込まれた体験は誰にでもあるかもしれない・・・。 あの人(今回は障がい者)さえ居なければ良いのに,自分の<あること>を否定されるという憎悪,彼らが僕の<在ること>を否定しているんだという思い込み、悍ましき勘違い。 さらに植松容疑者は辞めた日と措置入院になった日が一緒だったと聞いています。自分がやまゆり園で何かをする成し遂げようとするabilityを失うどころか,お前こそが障がい者だと言われた瞬間だったのではないかと思うのです。 私見に基づく施設職員のどん底の絶望、それを他の人が知るよしもないという強い偏向から始まる孤立があり、私の存在そのものへの考えを巡らせてほしいという強い願望が共存した。その存在誇示がこの凶行だと考えています。 そこに重なる優生思想と,経済至上主義。 この事件は風化させられない、亡くなった19人の方々への想いを込めて、どうぞ、形式知として、皆さんで話し合ってほしい、風化させないでほしい。暗黙知としての常なる優生思想を、形式知としてほしい。 これを、この講義のメッセージとしたい。

相模原事件から半年、この世の中が希望の世の中であることを改めて築いていきましょう。



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